2016年6月30日木曜日

共産主義圏では人を殺す予算があるのは当たり前

共産党の人物が防衛費を人を殺す予算と発言して撤回したらしい。
が、本人としては矛盾はなかったのではないだろうか。
撤回するのは理不尽と感じたものだろう。

共産主義とは「利益を皆で分け合えば公平だよね」って世界を目指すものである。
すると個人で利益を追求する者は『敵』ということになる。
ではこの敵をどうするか。
平和的に国外追放する?
いやいや、追放先でその人物がより幸せになったら問題だ。
共産主義への中傷を行われたら困るし、連鎖して共産主義から抜ける者が現れたらそれも困る。
ではどうするかというと、死んでもらうか強制収容されてもらうしかない。
どちらにしても人生終わり=死である。
これは推測でもなんでもなく、共産主義を実現する上での現実であり、共産主義圏で繰り返されてきた歴史である。
つまりそもそも「人を殺す予算がない」という発想が共産主義者にはない。

それに加えて『利益を追求する者が敵』という原則を続けていると、利益を追求する者がいなくなってしまうのである。そりゃ誰も敵にはなりたくない。
文字通りであり当然の帰結である。
すると国が疲弊する。
なにせ利益を追求しないのだから。
ではどうするか?
自国を広げるのだ。
中に無いなら外に行けばよい。
つまり侵略して利益を奪えばよい、という方向にしか進む道はない。
つまり人を殺して奪うわけである。
よってやはり「人を殺す予算がない」という発想は共産主義からは生まれない。

人を殺さずに共産主義が実現できないという現実を理解すると、共産主義者の言っていることが分かってくる。
そしてそれをして平和主義を謳う欺瞞も見えてくる。

問題は資本主義も暴走すると行き着く先は戦争だということであり、
要はバランスが大事なのだが、
全部のいいとこ取りの主義ってないのかな。


ただし共産主義には全てを解決する状態も存在する。
全員貧乏になるという状態である。
この状態で助け合いの精神が残っていれば完璧な共産主義が実現する。
まあその状態で助け合いの精神が残るはずもなく、結局最後は誰もいなくなる。
しかし最後の一人になったとき、やはりそこに完璧な共産主義は存在するのである。
まあ要するに無理なのである。


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